自分の歴史を築こう
私は中学校1年の頃はまったく勉強する気がわきませんでした。しかし、あるできごとを契機に勉強しようという気持ちが膨らんできたのです。
私の中学校1年の時の成績は280人中、いい時で180番ぐらい、悪い時は240番台で、もう底の底の状態でした。その頃学年順位は、職員室前廊下に実名を張り出されました。上段は1番から50番まで、下段は51番から100番まで。それ以外の生徒はすべてカット。つまり100番内に入っている生徒は勝ち組として認められ、それ以外の生徒は、負け組み・落ちこぼれとして扱われていたわけです。したがってそれまで私の名が職員室の前に張り出されることは一度もありませんでした。
当時私は、野球部に入っていましたが、運動神経だけは抜群で、1年からレギュラーに抜てされるぐらいでした。今はメタボのかたまりで、その体型から当時の面影はありませんが、これでも中学時代はがっしりした「いなかっぺ大将」で、体育大会や球技大会ではヒーローだったのです。
それは、中2の最初の実力テストの時でした。担任の先生が、私の出席番号と私の前の生徒の出席番号を違えて二人の成績を逆に記入したため、なんと私の学年順位が突然98位になってしまったのです。職員室前に張り出された順位表を見に行くと、「細井、おまえがんばったな」という声と「おまえ、カンニングしたんとちがうか」という声が飛び交って大騒ぎでした。
その日のホームルーム、担任の先生に呼ばれた私は、みんなの前でいきなり4発の往復ビンタをうけました。私は突然のことに驚き「なんで叩くんや」と言ったところ、担任は「おまえは卑怯者や。わしのミスを言いに来なかったやないか。藤井はすぐに言いに来たのに。」と言うのです。 そこで私は「ミスしたのは僕やないやろ、先生やんか」と言い返し、「わかった、98番になったらええんやろ」とみんなの前で大見得をきってしまったのです。当時先生といえばとてつもなく怖い存在で、先生に反抗するなんてとてもできることではなかったのです。この時の私は足のひざがガクガク震えていました。
先生は言います。「ほんなら、成績あげてみいや」それからです。私が勉強しだしたのは。あの担任を見返してやろうその一心で勉強しました。おふくろに頼み、新聞の折り込みチラシの裏面の白いものを集めてもらい、それにひたすら書いて書いて書きまくって覚えました。また、覚える時は部屋の中を歩き回りながら声を出して必死に覚えました。そのかいあり30点ほどしか取れなかった英語が60点、80点と取れるようになり、だんだん勉強が面白くなってきました。その度に担任はみんなの前で「細井、英語…点、数学…点」と結果発表してほめてくれたのです。これがうれしくてまた次も頑張りました。
そうこうしているうちに順位は目標の98番を越え、80番、50番、30番と上がり続け、ついに11番までになったのです。通信簿も中1では、体育は5であとはオール1だったのが、中3ではオール5までになりました。
私は大学4年の時、母校の中学校で教育実習を受けました。なんとその時、中学生当時の担任が校長になっていたのです。実習生として着任した全校集会で、その校長は生徒に私を紹介してくれました。「ここにおる細井先生はな、体が太いが名前は細井っていうんや」体育館は爆笑の渦です。「この先生、中1の頃は、悪たれ小僧で、全然勉強せへんかった。通信簿は体育だけは5やったけど、あとは全部1やったんやで」生徒はまた大爆笑。「しかしな、細井先生は中3ではオール5になったんや」「こんなやつは教え子の中には一人もおらんかった」爆笑が大きなどよめきに変わりました。それから例のできごとをとうとうと語ったのでした。
「こいつほど先生にあったやつはいない。わしの教え子の中でも一番印象に残っているやつや。この中学校の誇りやと思っとる。君らは、この先生について行ったらまちがいない。この先生は、勉強ができない時の悔しさと、やればできるという喜びを知っている。それを教わればいい。」うれしい言葉でした。
その日から私の田舎の実家は、遊びに来る中学生であふれようになりました。
あの担任の先生との出会いとあの出来事が私を変え、私を育ててくれたのです。私も君たちを育て、よりよき方に導ける教師でありたいと思っています。
私たちといっしょに頑張りましょう。
そして、君たちは人に誇れる自分の歴史を築いて下さい。