史上最強の準優勝日本文理高校
6点もの大差がつき、9回もツーアウト。誰もが中京大中京の勝利を確信した。しかし、ここからが甲子園の高校野球。日本文理は怒涛の反撃に出た。ヒットにヒットを重ね何と5連打、5点をもぎ取った。しかも、二死一.三塁、一打サヨナラのまさに胸がしめつけられるようなシーン。次の打者が放った鋭いライナーは三塁手の正面。抜けていれば…そう思わせる結末だった。
「9回ツーアウトだからといってあきらめているやつはベンチにはいなかった。次につなげ、次につなげとベンチは押せ押せの大盛り上がりだった」と中村主将。
下馬評では、中京大中京が優勢だった。しかし全国最多の優勝を誇る強豪中京大中京に真正面からぶつかっていった敗者の彼らに涙はなく、まるで勝者のような笑顔が印象的だった。
新潟県勢初の決勝戦進出、これだけで十分勝利者に等しいのに、まさに優勝者にふさわしいような戦いぶりで、史上最強の準優勝であった。
日本文理の大井道夫監督は、1959年の夏、宇都宮工業高校で準優勝投手だった。3連投の決勝戦は疲労のピークにあり、点滴をして決勝に臨んだという。愛媛の西条高校との対戦は、2−2から延長にもつれこんだが、15回に6点を奪われて力尽きた。
開校3年目の新潟文理高校の監督を任されたのは45歳。13人の部員に野球経験者は半数もいなかった。用具は自腹で買い足し、校内ソフトボール大会を見てめぼしい人材を探した。選手は県外からの野球留学生を募るのではなく、地元主体の県民チームで構成した。
97年夏に初めて甲子園の土を踏んだ日本文理であったが、初戦、智弁和歌山に19失点と惨敗した。しかしその後甲子園に5回の出場。今までは3年前の春センバツのベスト8進出が最高だが、だんだんと全国的にもその名を知られるようになった。しかし、夏は一度も勝つことができなかった。
センバツの1回戦で優勝した清峰高校に負けてからから、選手のみんなは自分に一日1000回の腹筋・背筋を課した。打撃練習では、強いゴロだけ打つことを考え、フライをあげることを禁じた。
そのかいあり、チームは今大会全試合10本以上の安打を放った。また、大会史上初の2試合連続毎回安打を含む5試合連続2ケタ安打をマーク。5試合42イニング中、無安打に終わったのはわずかに4イニングだけという驚くべき強力打線が出来上がった。
中村主将は「これまでよく“おまえらは火縄銃”だと言われてきたけど、少しはマシンガンに近づけたかな。負けたけど最高の試合が最後にできて幸せ。胸を張って新潟に帰りたい」と語った。
大井道夫監督は、またしても優勝の夢を絶たれたが、「最後にオレの野球を見せてくれたよ。あの強い中京に田舎チームがよくやった。この年になって、こんな感激を味わえるなんて幸せだよ」
「こりゃ(監督を)やめられないな」67歳の情熱が萎えることはない。
日本文理ナインが甲子園にさわやかな風を吹かせた。
感動をありがとう日本文理ナイン!