藤田まことさんを偲んで
また一人、味のある俳優がいなくいなってしまった。藤田まことさん。私にとって藤田さんと言えば、まずは「てなもんや三度笠」だ。私は毎週欠かさず見ていた。というより見せてもらっていた。昭和30年代、貧しい我が家にはテレビはなく、近所の家に毎晩のようにテレビを見せてもらいに行っていたからである。
当時娯楽と言えば、映画しかなかった。私はチャンバラ映画が大好きで、年に1〜2度親父に連れられて映画館に行くことが大の楽しみであった。「東映映画」の大サービス3本立ては50円だった。映画はもちろん白黒。カラー映画は天然色と呼ばれ、この天然色映画にあたった時は、心浮かれる気分だった。
だからテレビの出現は衝撃的だった。私たちにとってテレビは、茶の間で毎日映画を観れるようなリッチな気分になり、近所の悪ガキ連中も白黒テレビの前にくぎ付けになったものだ。お決まり文句の「あたり前田のクラッカー」は、出てくる状況はわかっているのに、出てくることを期待しており、出てくると腹を抱えて笑ったものだった。当時このお決まり文句を知らない者はいなかった。
この「てなもんや」は6〜7年間続いたろうか。私たちの中でも藤田さんは大ヒーローだった。しかし、それ以後藤田さんは、不遇の時代を迎える。「てなもんや」を終えると仕事が無く、キャバレー回りの日々が続いたという。地方のキャバレーでは、控え室にはゴザがひいているだけで、かってのスターとはほど遠い扱いだった。しかし、この人生経験が後の役者としての大きな肥やしになった。
73年からはそれまでのキャラクターとは全く異なった「必殺シリーズ」に出演する。何事も真面目にせず、いてもいなくても変わらない立場上、同僚から「昼行灯」と呼ばれ、上司には事あるごとに嫌味を言われ、怒鳴られる。家は家で、やる気も無く出世の見込みも無いことから嫁姑に「ムコ殿!」と疎まれる、うだつのあがらない同心役。だがその裏では、一刀無心流免許皆伝のスゴ腕の剣の使い手として、悪を葬り去る仕事人を演じた。悪人をやっつけるラストシーンは何度見ても痛快だった。
88年からは、温和で人情に厚い安浦刑事役を演じた。この「はぐれ刑事」では、刑事番組としては珍しく、派手なアクションやカーチェイスなどもなく、事件だけを追う刑事でなく、人間として生活感あふれる刑事の一端を垣間見ることが出来た。
藤田さんは自分のことを常々「喜劇役者」と言っており、「俳優」ではないと断言している。笑いを極めたからこそ、それが、多くの役柄に通じた。ラストシーンの娘たちやバーのマダムとのかけあいは、ホッとする雰囲気を醸し出している。「ヒーローでもない」「人生の成功者でもない」が軽妙さと重厚さの両方を兼ね備えた実にスゴイ演技だった。
「自分に厳しく、他人にも厳しい」藤田さんは、150本もの失敗作のビデオを持っており、そのビデオを見ては自分への戒め、反省材料としているという。
彼は薄氷を踏む思いで役を引き受け、視聴率を気にしていた。それは出演者の生活、家族の生活などを慮ってのことだった。だから新人俳優に対しては厳しく対した。これは藤田流の育て方であり、やさしさでもあった。
一方、30億もの借金をし、自宅を手放すことになっても、「借金も財産」と年中無休で働き続け、返済し終えた。まさに光と影のある波乱万丈の生涯だったと言える。
一つの時代が終わった。「鋼鉄」(はがね)の作者石原慎太郎は、藤田さんを指名して、主役を演じてもらおうとした。しかし、それもかなわず、私の中の昭和がまたひとつ消えた。