2010年02月26日

藤田まことさんを偲んで

 また一人、味のある俳優がいなくいなってしまった。藤田まことさん。私にとって藤田さんと言えば、まずは「てなもんや三度笠」だ。私は毎週欠かさず見ていた。というより見せてもらっていた。昭和30年代、貧しい我が家にはテレビはなく、近所の家に毎晩のようにテレビを見せてもらいに行っていたからである。

 
 当時娯楽と言えば、映画しかなかった。私はチャンバラ映画が大好きで、年に1〜2度親父に連れられて映画館に行くことが大の楽しみであった。「東映映画」の大サービス3本立ては50円だった。映画はもちろん白黒。カラー映画は天然色と呼ばれ、この天然色映画にあたった時は、心浮かれる気分だった。


 だからテレビの出現は衝撃的だった。私たちにとってテレビは、茶の間で毎日映画を観れるようなリッチな気分になり、近所の悪ガキ連中も白黒テレビの前にくぎ付けになったものだ。お決まり文句の「あたり前田のクラッカー」は、出てくる状況はわかっているのに、出てくることを期待しており、出てくると腹を抱えて笑ったものだった。当時このお決まり文句を知らない者はいなかった。
 

 この「てなもんや」は6〜7年間続いたろうか。私たちの中でも藤田さんは大ヒーローだった。しかし、それ以後藤田さんは、不遇の時代を迎える。「てなもんや」を終えると仕事が無く、キャバレー回りの日々が続いたという。地方のキャバレーでは、控え室にはゴザがひいているだけで、かってのスターとはほど遠い扱いだった。しかし、この人生経験が後の役者としての大きな肥やしになった
 

 73年からはそれまでのキャラクターとは全く異なった「必殺シリーズ」に出演する。何事も真面目にせず、いてもいなくても変わらない立場上、同僚から「昼行灯」と呼ばれ、上司には事あるごとに嫌味を言われ、怒鳴られる。家は家で、やる気も無く出世の見込みも無いことから嫁姑に「ムコ殿!」と疎まれる、うだつのあがらない同心役。だがその裏では、一刀無心流免許皆伝のスゴ腕の剣の使い手として、悪を葬り去る仕事人を演じた。悪人をやっつけるラストシーンは何度見ても痛快だった。
 

 88年からは、温和で人情に厚い安浦刑事役を演じた。この「はぐれ刑事」では、刑事番組としては珍しく、派手なアクションやカーチェイスなどもなく、事件だけを追う刑事でなく、人間として生活感あふれる刑事の一端を垣間見ることが出来た。
 
 藤田さんは自分のことを常々「喜劇役者」と言っており、「俳優」ではないと断言している。笑いを極めたからこそ、それが、多くの役柄に通じた。ラストシーンの娘たちやバーのマダムとのかけあいは、ホッとする雰囲気を醸し出している。「ヒーローでもない」「人生の成功者でもない」が軽妙さと重厚さの両方を兼ね備えた実にスゴイ演技だった。

 
 「自分に厳しく、他人にも厳しい」藤田さんは、150本もの失敗作のビデオを持っており、そのビデオを見ては自分への戒め、反省材料としているという。
 彼は薄氷を踏む思いで役を引き受け、視聴率を気にしていた。それは出演者の生活、家族の生活などを慮ってのことだった。だから新人俳優に対しては厳しく対した。これは藤田流の育て方であり、やさしさでもあった。
 

 一方、30億もの借金をし、自宅を手放すことになっても、「借金も財産」と年中無休で働き続け、返済し終えた。まさに光と影のある波乱万丈の生涯だったと言える。
 

  一つの時代が終わった。「鋼鉄」(はがね)の作者石原慎太郎は、藤田さんを指名して、主役を演じてもらおうとした。しかし、それもかなわず、私の中の昭和がまたひとつ消えた

2010年02月15日

坂本龍馬が不況を救う?

 今まさに坂本龍馬ブーム。それはNHKの大河ドラマ「龍馬伝」の放映によるものが大きい。この龍馬ブームによる経済効果は234億円と言われる。龍馬像が立つ桂浜には、休日には例年に比べ倍以上の人が訪れ、坂本龍馬記念館の入場者数は昨年の5倍以上だとか。
 また、ある喫茶店では、龍馬の似顔絵が浮かぶコーヒー「龍馬ラテ」860円を売り出すと、1時間待ちが出るほどの人気だと言う。


 県内人口が減り、過疎化の進む高知県にあっては、まさに龍馬・様・様といったところではないだろうか。歴史に残る金融不況の中にあってリーダー的存在の出現を期待する声が高まり、それが龍馬像とダブって、混沌とした時代をまとめたヒーロー「坂本龍馬」ブームの火付けになったのかもしれない。


 私は司馬遼太郎の『竜馬がゆく』を読んで以来、すっかり竜馬に魅せられ、今では全巻5度も読み直し、書斎には竜馬関係の本が多く並ぶ。学生時代には、京都の寺田屋や龍馬の墓を訪れ、墓前で杯を酌み交わしたこともある。それくらいの熱烈な竜馬ファンでもある。
龍馬の肖像画を見ると、すずしい目に、ぼさぼさの蓬髪。よれよれの木綿服にブーツという奇抜な格好。自分でも「土佐の芋堀り」というように、土の臭いにおいのするところが庶民的で親しみを抱かせる。


 龍馬は土佐の郷士出身。郷士とは、戦国時代の長宋我部家支配下の一領具足層を言い、山内一豊支配下の家臣の上士とは同じ藩士といっても、差別され、対立関係にあった。上士と通りでハチ合わせると、道を譲り、上士が通り過ぎるまで頭を下げていたという。
幕末には土佐郷士の多くが、尊王攘夷運動に身を投じている。虐げられた者の底力が結集して彼らの過激さを引き出したのだろうか。


 龍馬と言えば、当時犬猿の仲であった薩摩と長州の連合を仲介大政奉還の画策船中八策(これは五箇条のご誓文の原案となった)の起案など、維新に果たした役割は数しれない。


 彼の目は「藩」とか「国」を越えて「世界」を見ていた。今で言うグローバルな視点があった。それが日本最初の商社機能を持つカンパニー、亀山社中そして海援隊を結成させることにつながる。世界を見つめる龍馬には行動力と時代を先取りした先見性、天稟の才能があった。


 彼は西郷隆盛のように受身でなく、自分自身で飛び込んでいって、自分の望む方向へ情勢を動かす攻め形のタイプだっただけに、時代が彼の出現を求めていたのかもしれない。


 また、龍馬はその人生で、開明進歩の人たちと出会い、自分を成長させていった。その一人が勝海舟だ。幕臣の勝に初めて会った時、「奸物ならば斬る」つもりだったという。しかし、勝の高い次元の話に感銘して即弟子入りした。龍馬は「眼光鋭く怖い顔だったが、笑うととても愛嬌があり、人なつっこい」とか。それが、多くの人たちとの出会いを導き出した。
日本の近代化を夢見て、動乱の世を駆け抜けた坂本龍馬。33歳という若さで暗殺され、龍馬の構想した新しい時代を見ることなく散っていった。もし彼が生きていたら明治ももっと変わっていたに違いない。
そう思うと残念でならない。


 司馬遼太郎は『竜馬がいく』のあとがきで、
「竜馬だけが型破りである。この型は、幕末維新に生きた幾千人の志士たちの中で、一人も類を見ない。日本史が坂本竜馬を持ったことは、それ自体が奇蹟であった。なぜなら天がこの奇蹟的人物を恵まなかったならば、歴史はあるいは変わっていたのではないか」
「日本史が記している『青春』の中で、世界のどの民族の前に出しても十分に共感をよぶに足りる青春は、坂本竜馬のそれしかない」と評している。


 私も、もう一度「竜馬がゆく」を読み返すことにする。

2010年02月01日

ドン底の商店街からの復活

 8年前の商店街、それはもう散々なものだった。人の足は遠のき、シャッターを下ろした空き店舗が激増したひなびた商店街で、閉鎖は時間の問題だった。ところがどうだろう。今では、年間30万人もの人が押し寄せる商店街へと見事変身した。
 

 大阪福島聖天通商店街がそれだ。近くに大型店が進出し、客を奪われ、危機感を感じた商店主が集まり、善後策を練った。何か策はないか。喧々諤々の議論の末、若い商店主から、若い人を集めるのなら、“占い”の商店街にしてみたらどうかという提案があった。しかし、商品を売る商店街が売らない(占い)とは何事か。ベテラン店主は猛反対した。でもこれといった代替案はなく、結局折れざるを得なかった。
 

 今、アーケードの入り口には「売れても占い」商店街という看板が掲げられている。「占い」を戦略商品として聖天通商店街は蘇った。週末には30人もの占い師が商店街を占拠し、それを目当てに若者が集まり、活況を呈している。
  商店街のイベントも工夫され、面白い。「あなたもなにわの商人になれる」と銘打って、修学旅行生さえも取り込もうとしている。


@あきんどの心意気講話     
     生き方の大事さ、お金の大切さなどを商店主が輪番で講話する。
Aあきんど体験
     各店でレクチャーを受け、商品の販売にあたる、「でっちどん体験」。
     若手落語家が、でっちどん体験している人を激励。
B占い‘大楽’(だいがく)体験入学
     観相学(手相・人相)のABCを学習
  
 各店舗も工夫を凝らしている。例えば、ある居酒屋では、お客さんに割り箸のくじを引いてもらい、阪神タイガーズの大阪らしく、『虎カラー』の黄色を引き当てると、生ビール1杯サービス、『真弓くじ』を引くと2杯がサービスされる。
 
 メガネ屋さんは、「おみくじ引いて幸運メガネ」引いたくじによってフレームは30%〜20%引、 レンズ50%〜40%引などとなる。また、洋服屋さんの、占いの先生のお墨付き「開運ネクタイ」は好評。2000円払うと、ご縁(5円)も付いてくる、値段は1995円と手ごろ。大阪人らしいシャレの聞いたサービスだ。
 
 この商店街の復活の秘策は、ズバリ『人間力』にある。つまり、ものを売るのでなく『人間力』を売っている。激安などの低価格では大型店にとうていかなわない。だからサービスを売りものにする。

 
 お客さんには、“楽しく買い物をしてもらう”そのためには、対面接客や客とのコミュニケーションを何より大切にしている。売り上げは後の結果、まずはお客さんに尽くす。そうすれば固定客は囲い込める。こうした熱意と工夫により、大阪福島聖天通商店街は固有の文化を作り上げた。
  

 世の中は今、100年に一度と言われる金融不況。しかし、私たちは不況のせいにしてネガテイブに生きるのでなく、時代の流れに対応したアイデアと熱意が必要だ。大阪福島聖天通商店街からそんなことを学んだ。

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