沖縄の夢かなう!興南高校、春夏連覇
「この勝利は沖縄のすべての県民の力で勝ち取った勝利です」興南高校の我如古盛次主将は優勝インタビューでそう答えた。打つたびにアルプスからの応援が響きわたり、それが大きな力になり、自信を持ってプレーできた。
我喜屋監督は「深紅の優勝旗を見て泣く人も、万歳する人も、カチャーシーを踊る人もいた。これだけ多くの人たちが待っていたんだなと実感した。この優勝旗は一人一人の栄冠です」と述べた。
我喜屋監督は68年夏、興南初のベスト4進出の時の主将だった。本土に復帰する前の当時はパスポートを手に船を乗り継いで甲子園入り、沖縄旋風を巻き起こした。しかし、準決勝で優勝校の興国に0‐14で大敗。内地との力の差を痛感して沖縄に帰った。
「ここまで来るのに42年もかかった。当時逃がした魚がようやく沖縄に戻ってきた」先人たちが何度となく挑み跳ね返された壁、その苦労に思いを巡らせながら半世紀の思いを込めて感慨深げに話された。
それにしても史上6校目の春夏連覇を達成した興南高校は強かった。特に5−0とリードされた準決勝の報徳高校戦の逆転劇はまさに神がかりだった。興南高校には、逆境にあっても竹のようにはね返すしなやかさがあった。1点リードの9回ツーアウトランナー3塁。このしびれる場面で島袋投手は5球すべて140キロを越えるストレートで勝負し、打者を三振に打ち取った。
興南野球部の部訓は「魂知和」(こんちわ)「魂をもって臨み、和をもって力となす」まさにこれを地でいったのが今夏の甲子園だった。
エースの島袋投手は、夏の甲子園の決勝から逆算して、春の選抜優勝からの時間を過ごしてきた。ずっと夏の甲子園での連投を考えて練習スケジュールを組んだ。だから沖縄大会中も炎天下の中800球もの投げ込みを行い、小さな体にムチうってオーバーワークを課した。蒸し暑さ対策として雨合羽をユニフォームの下に着込むなどして周到な準備で甲子園に臨んだ。
しかし、島袋投手は、夏の甲子園では、決して本調子ではなかったと思う。一回戦の鳴門(徳島)高校戦は、5回を投げて5安打を打たれ、四球も3つ。ストライクとボールがはっきりしていた。しかし、ランナーを出してから、粘り強い投球術がさえた。ピンチになると145キロのストレートを魂を込めて打者の膝元に投げた。
準々決勝と準決勝では、序盤に連打を浴びて失点する場面もあったが、どちらの試合も味方打線が追いつき逆転すると、その後相手チームに1点も許さなかった。
決勝の東海大相模戦では、本来のストレート中心の投球から、相手の裏をかいて変化球で攻めた。東海大相模の選手はそれまでの4試合で、打率3割6分を記録しており、強打のチームと言われた。しかし、これはほとんどがストレートを狙い打っての結果であり、特に左投手の変化球にはもろさをみせていた。
これを見透かした捕手の山川選手は「東海大相模のチームは、まっすぐ一本待ちのような気がしました。足を上げてまっすぐのタイミングでリズムを取る感じだったので、真ん中付近でも、ストレートみたいな軌道でツーシームを低めに集めればゴロを打たせると思いました」と述べている。
島袋投手は三振を捨て、変化球を低め低めに集めゴロの山を築いた。結果、強打の東海大相模打線を1点に封じ、チームを優勝に導いた。
春夏の連覇は相当プレッシャーになったに違いない。しかし、自分たちにしか味わえないプレッシャーだとプラスに考え、連覇を実現、新しい歴史を作った。君たちは沖縄の誇りだ。そして、高校球児の誇りでもある。甲子園で熱く燃え、たくさんの感動をいただいた興南高校の選手に惜しみない拍手を送りたい。
今日、カラオケで「島人ぬ宝」(しまんちゅうぬたから)と甲子園で封印された「ハイサーおじさん」を歌い、泡盛で乾杯だ。