被災地から甲子園出場を目指す!
大船渡高校野球部といえば、昭和59年にセンバツに出場し、あの明徳義塾を倒しベスト4に進出し大船渡旋風を巻き起こした岩手県の強豪チームである。震災のその日、野球部の24人は、高台のグランドでいつものように練習中だった。選手は全員無事だったが、7人が家を失い、一人は母親を亡くした。
震災から1カ月は野球のできるような状態ではなかった。幸いグランドが使える状態で残っていたため、4月22日になってやっと練習を再開した。大船渡高校との親交のあった北海道の鵜川高校などの呼びかけもあって、野球グラブやバット、練習着などが段ボールで10箱近くも贈られ、練習できる態勢もやっとできあがった。それにつれ部員の間には笑顔が戻ってきた。急場しのぎのチーム作りであったが、練習試合を続けることで、試合勘を取り戻そうとした。
そして迎えた春の地区予選は何とか勝ち抜き、県本大会に出場することができた。自分たちが勝つことで震災の街を勇気づけよう、地元のために優勝をと意気込んだ大船渡高校であったが、勝負はそんなに甘いものではない。1回戦、エラーから失点、好機にも凡打を積み重ねる完敗だった。この試合甲子園出場につながらない試合であったが、選手は大粒の涙を出した。
氏家主将は、震災後の1カ月野球から離れたことを決して言い訳にせず、「まず自分たちが復興の扉を開きたかった。地域の方に申し訳ない。」「あと、2カ月地域の人に待ってもらって、次こそいい報告がしたい」と夏の大会での活躍を誓った。 「今年は誰かのために戦う年になる。」と吉田監督も強い決意で地区予選に臨むという。
震災を乗り越えようとするのは、大船渡高校だけではない。高田高校。陸前高田市にある学舎は、津波に襲われ、がれきと化したが、正門付近の阿久悠さんの歌碑だけが残った。
その歌碑には「きみたちは甲子園に1イニングの貸しがある。そして、青空と太陽の貸しもある。」と刻まれていた。88年の夏の甲子園。高田高校は、8回降雨コールドゲームで1イニングを残して敗れた。その高田高校に再起を促す歌なのだ。しかし、高田高校は春の地区予選で屈辱的な敗退を喫し、選手は号泣したという。
大船渡高校、高田高校野球部では、雪辱を期して夏へのスタートは切られている。私たちは部員のみなさんの笑顔にどれだけ勇気づけられたことだろう。部員のみなさんには「涙の数だけ強くなれ!」というエールを贈りたい。