体罰について
大阪桜宮高校のバスケット部のキャプテンの体罰からの自殺以来、体罰は学校の部活動から女子柔道界をも巻き込んだ論争に発展している。
テレビなどに出てくるマスコミ仕立てのコメンテイターは、一応に体罰否定論をこれみよがしとまくしたてる。
先日ゴルフをご一緒した中学の先生は、野球部の監督。なんと勤務先の中学で「体罰調査」なるのもが回ってきたという。その先生、その日の朝練で、ある生徒の頭をコツント叩いたという。早速調査書面に、頭を一発コツンとたたきましたと書いたと苦笑いをしながら話されていた。この「体罰調査」はなんと生徒側にも回され、教育現場ではまさに体罰の魔女狩りの様相で、これはどう見ても異常だ。
「体罰は許されない」これは学校教育法で定められているから当然のことである。しかし、なぜ体罰がなくならないのか考えねばならない。
私も塾生の頭をコツンとやることはある。それは決められたことを再三注意しても守っていないことに対する「叱りの意味」のあるお仕置きでもある。生徒はお仕置きを通じてやってはいけないことを身をもって理解する。これを教育評論家にすれば、「痛みで人を変えようとするのは間違い」だ。
「叱り」には教育的な意味が込められている。「叱り」は目下の者の言動のよくない点・本分を忘れた点などを指摘して、強くとがめることを言う。これに対し「怒り」は腹を立てて憤慨する人間の感情をむき出しにしたものだ。
自分の限界に挑戦し、それを超越した時の喜びを味わえるのは部活動だ。そして、それは自分の生きる自信につながる。部活動を通じての人間形成である。人間形成であるがゆえに厳しさも要求される。人は「厳しさ」と「激しさ」を乗り越えてこそ人間的に成長していくのだ。
甲子園やインターハイで全国大会に出場するチームは、練習量はもとより「あいさつ」「礼儀正しさ」「思いやり」「感謝の心」全ての面で洗練されている。だからこそ、全国大会に出てこれるのだ。それをたかがインターハイと言うスポーツ評論家は最低最悪だ。
桜宮高校バスケットOBは、「体罰は教育の一環だと思っていた。」と話している。それは、教師と生徒の間に信頼関係が築かれていたことの証でもある。
闘将と言われた楽天星野監督は、「『体罰だ! いじめだ!』と言うけど、選手なんかは指導者から言われるうちが花やないか。それだけ親身になってくれているということ。このままじゃ指導者はどんどん“事なかれ主義”になっていくぞ。何かあっても『私は関係ありませ〜ん』だよ。ただ、死んだら(選手が自殺を選ぶほど体罰をしたら、その指導者は)負けよ。それはアカン!」
私は子どもにとってある程度のお仕置きは必要だと思っている。私のこれまでの経験から痛みから生まれるエネルギーはあると信じて疑わない。