2021年01月06日

コロナ第三派に思う

 「日本人ほど民度に優れた民族はない」そう思っていた私だが、どうやらそうでもなさそうだ。

コロナ禍の下、自制するどころか、自分さえよければいい。今が楽しければいい。そういった利己主義がはびこっている。それがコロナ感染者数の激増という現状を導き出している。
 
 コロナを人ごとのように考え、自分は大丈夫という安易な考えが蔓延しているように思えてならない。志村けんさんが亡くなった時は、コロナの恐ろしさを実感したと思うのに、時が過ぎると、我慢できず大騒ぎしている若者を見ているとこの先が心配だ。
 

 こういった考えは、どこからきているのだろう。それは道徳的規範の欠如からきているものではないだろうか。

「道徳」の「道」とは、人が従うべきルールのことであり、「徳」とは、そのルールを守ることができる状態をいうのであって、人々が、善悪をわきまえて正しい行為をなすために、守り従わねばならない規範なのである。
 
守り従うべきものとして法律や規則などがあるが、道徳はそれとは違う。法律は守らないと罰せられるが、道徳にはそのような強制力はない。道徳は私たち一人一人の心の問題であって、私たちの内面的な規範だ。
 
 私は罰則があり強制力がある法律ももちろん社会の秩序を維持するために必要だが、それよりもむしろ道徳の必要性を感じる。心豊かな人間は法律によっては決してつくられない。つまり人づくりの根幹は道徳にあると思う。


 最近になってやっと学校でも道徳教育が復活したのだが、その道徳教育を受けていない層の若者に常識と良識が備わっていない。
こんな最中にあるにもかかわらず、居酒屋に行けば、若年層の男女が周りの人の迷惑を顧みず大声で騒ぎ立てる。道路を渡るとき、横断歩道が近くにあるにもかかわらず、赤信号だというのに、スマホを見ながら平然と車の前を横切ろうとする。ホーンを軽く鳴らすと、慌てる様子も悪びれる様子もなくひたすらスマホに目をやる。なんとも情けない。


 道徳教育では自分がどような心づかいで、どう行動すれば周りの人に迷惑かけずにうまくやっていけるのか。学ぶことができる。
コロナをブレークスルーとしてとらえ、心を磨いてゆきたいものだ。
 

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